Q.「駅の宿ひらふ」はJRの経営ですか?
A.いいえ、違います。ここは私個人がJRから土地と建物を借りて営業しています。JRの施設を使って民間で営業しているのは、日本でここだけです。
Q.いつから営業しているのですか?
A.前オーナーが1987年(昭和62年)8月に仮オープンし、ログコテージと丸太風呂を秋に手作りで完成させ、1988年(63年)4月に正式オープンしました。私は1995年(平成7年)8月に経営を任され、1997年(平成9年)11月に2代目オーナーになりました。
Q.オーナーは北海道生まれですか?
A.いいえ、生まれは京都です。山の見える田舎町に住むのが夢で、会社を退職してここへ来ました。北海道にある旅人宿のオーナーは、こういう人がたくさんいますよね。
Q.どんな会社に勤めていたんですか?
A.京都にある社員300人程の中堅商社でした。現在、大証2部上場の結構優良企業だったんです。そこで4年半の間、経理関係の仕事をしていました。
Q.仕事は自分に合わなかったんですか?
A.いいえ、仕事は好きでしたよ。就職活動では一部上場企業から内定をもらっていたんですが、大学時代、財務管理を専攻しており、その会社だけが経理部門での採用を約束してくれたので入社を決めたんです。だから自分の好きな仕事をさせてもらってたんで、それほど不満はありませんでした。
ただ、当時会社は上場を目差しており、僕はその中核になる部門にいたのですが、どうも会社が大きくなるに従い人間関係が気薄になっていくように感じていたんです。そのためこのまま今の仕事を続けていくことに疑問を感じていました。
Q.よく会社を辞める決心がつきましたね。
A.決心するのに3年くらいかかりましたね。入社して1年たった頃から、「何か違う、何か足りない。」って思い始めたんです。京都の北山あたりに土地を買って、週末ログハウスを建てに行こうかと計画したり、海外青年協力隊の参加を考えたり、自分の心の空白をなんとか埋めようとしました。でもどれも、いま一つ決心がつかず、中途半端な気持ちでいた1993年(平成5年)5月4日、僕にとって一生を左右する出来事が起こったんです。
その日僕は、GWの連休を利用して九州へバイクツーリングに出かけていました。夜のフェリーに乗るために日南海岸を宮崎に向けて北上している時でした。都井岬から少し走り、右90°のコーナーを抜けると、右手にいきなり断崖絶壁の素晴らしい景色が現れたのです。僕はほんの一瞬、その景色に目を奪われました。その時間、わずか2秒程度。ところが、目線を前に戻した時、小さな女の子が右から走り出してきたのです。あわててブレーキをかけましたが、間に合わず衝突し、女の子を対向車線へ跳ねとばしてしまったのです。その時の光景は、今でもはっきりとした映像で、しかもスローモーションで残っています。女の子はゴム人形のようになって8mも転がっていったのです。後の現場検証でわかったのですが、僕が目を離すのと女の子が飛び出すのが同時だったので、気付くのが遅れ、最悪のタイミングだったようです。さらに悪いことに、連休前で忙しかったため、任意保険の更新手続きを忘れており、なんと3日前に期限切れしていたのです。それに気付いた時にはもう生きた心地がしませんでした。
でも捨てる神あれば拾う神ありで、あれだけの事故にもかかわらず、女の子は左足を骨折してしまったんですが、頭などは打撲だけで済み後遺症も心配ないとのことでした。ぶつかった時、僕はハンドルを左に切って避けようとしたらしく、その時フロントフォークが女の子の足に当たったのが骨折の原因でしたが、本田のVFR400Rというフロントカウル付のバイクに乗っていたため、衝突時の衝撃をカウルが割れることによって吸収してくれたのです。さらに幸運だったのは、女の子の両親がとてもいい方で、その日フェリーに乗れなかったので自宅に一晩泊めてもらうことになりました。そんなことが影響して、その後の民事処分は、以後十分気を付けるようにとの注意だけで罰金などは一切なし、行政処分も免停1日で済みました。事故の大きさから考えると本当に幸運でした。
帰りのフェリーの中では毛布にくるまってもなかなか寝られず、あのときもし打ち所が悪かったらとか、もし対向車が来ていたらとか、悪いことばかり考えてしまい、涙がいつまでも止まりませんでした。このとき、僕にとって一番ショックだったのは、女の子をひいた瞬間、最初に出てきた一言でした。それは「俺、一生会社にいなあかん!」という言葉でした。女の子にもしものことがあったら一生懸けて償う気持ちから出てきた言葉だったんですが、このとき初めて自分は会社での仕事が本当にやりたいことじゃないんだと気付いたんです。人生は何が起こるかわからない。だったら自分にやりたいことがあるなら、出来るうちにやっといたほうがいいと思う様になったんです。あのとき十字架を背負わされることになってもおかしくなかったんだし、これからは神様がお情けで与えてくれたおまけみたいな人生だと思った時、会社を辞める決心がつきました。
Q.どうして比羅夫を選んだのですか?
A.特にこだわりはなかったのですが、本州の文化圏は抜け出したいと思ってました。
会社にいた頃、よく九州へ旅に出ていたので、知り合いが多い九州の方が仕事は探し安いだろうと思ったんです。でも、季節が夏だったので、とりあえず北海道で探して、なければ九州へ行こうと軽い気持ちでいました。
北海道だとやはり、山の見える大雪・知床・日高・ニセコ。1995年(平成7年)8月、フェリーで小樽について、まず最初にニセコに来ました。自転車旅行をしていた平成元年に羊蹄登山をしようと、何も知らず駅寝をしに来たのが、前オーナーとの出会いでした。最初はニセコ近辺の仕事状況を聞こうと思っていたんですが、話が進んでいくと最後にはここで働かないかということになっていました。その時オーナーは、ログハウスの建築の仕事を本格的にやってみたかったらしく、この宿は僕に任してくれるというのです。ただ、食事と部屋だけは面倒を見るけど給料を払えるほど余裕はなかったのです。建築の仕事が軌道に乗ってオーナー自身の生活に支障を来さないようになれば、宿を譲るというのが条件でした。
でも僕はいきなり田舎に住むつもりはなかったのです。最初はきっちり収入を確保できる仕事をして、週末や連休に旅をして自分の気に入った場所を見つけて、それから徐々に移住を考えていたのです。少し考える時間が必要でした。
その後、富良野周辺にも仕事を探しに行き、求人はあることはあったのですが、
「せっかくそこそこ満足していた仕事と安定した収入を捨ててここまで来て、またサラリーマンをやったのでは会社を辞めた意味がないやないか。宿の仕事がうまくいかなくても、それからでもサラリーマンは出来る。騙されたつもりで一度やってみよう。」そんな気持ちで少し開き直って、この仕事に就きました。
ただ、今から考えると僕はすごく運命的なものを感じます。神様にここに来るように導かれたような、そんな気がします。
Q.宿の仕事は大変じゃないですか?
A.大変だと感じるのは、お客さんが2カ月間絶え間なく続く夏場と、満員が続く正月だけですね。でも、閑散期はこっちがいくら来てほしくても、1〜2週間お客さんがないこともあるので、働けるってことはとても嬉しいことなので、忙しくて嫌だと思ったことは一度もないですよ。
Q.休みはあるんですか?
A.はい、4月と11月はお客さんが最も少ない時期なのです。4月の場合は、学生が3月いっぱいで春休みが終わり、社会人はGWまで休みません。11月は観光シーズンが終わり、スキーにはまだ早いので、そういった時期を利用し京都へ帰ったりします。
普段はお客さんがない時が休みです。
Q.いつ結婚されたんですか?
A.2001年11月です。出会いは2000年8月。彼女は宿に泊まりに来てくれたお客さんでした。宿泊の後、御礼のメールをくれました。彼女が大阪の吹田市出身で家も近かったので、帰省の際一緒に食事することになりました。そこで話が弾み、お付き合いが始まりました。
そして1年後に結婚。その1年後には男の子が生まれました。
雑然としていた宿もずいぶんと小奇麗になり、いまでは女将なしでは考えられない宿になっています。
Q.最近「とほ」に載ってませんけど、なぜですか?
(「とほ」とは、北海道を旅する人のための安宿ガイドです。)
A.「とほ」は、札幌のNADAという民宿の小鹿さんが、北海道を旅したとき気に入った宿を小さなガイドブックにして紹介するという方式で昭和61年にスタートしたのです。一人旅の旅人にとっては安く泊まれるし、友達もできるとあって、評判が良く、年々その知名度は上がって行き、やがて当然のごとく、宿の側から掲載の申込が来るようになりました。そして、小鹿さん一人では「とほ」に載せるのにふさわしい宿かどうか判断することができないほど、申込が多くなったのです。そこで、平成9年に「とほ」で紹介されている民宿同士で、「とほネットワーク」を作り、参加したい宿はネットワーク内の3件の宿の推薦を取ると参加が認められるという方式に変わりました。
これがうちの前オーナーには気に入らなかったようです。前オーナーの意見は、「参加したいというならどんどん載せればいい。せっかく来てくれたものをふるいにかけるようなやり方は団体のおごりだ。」というもので、平成8年に「とほ」から抜けてしまったのです。
この意見には賛成しかねるものがありましたが、ただ私も団体行動はあまり好きではないし、有り難いことに、よくマスコミが取材に来てくれるので、広告に関しては他の宿より恵まれているので、今現在、復帰はそれほど考えていません。「とほネットワーク」の考え方は結構好きなので、今後宿泊したとき、気の合うオーナーがいれば、復帰はそのとき考えてみようと思っています。